2014年9月18日木曜日

星の巡礼、と、悼む人。そして、あなたの隣の人へ。

このブログを書き始める前に、私の今までの活動を振り返ってみました。
実行委員会『命の架け橋』をたちあげて、2013年3月31日の”いのちの音の祭りin 茅野”までのあの日々。沖縄に移住したため、三か月間は、沖縄・長野を行ったり来たり。
夢中で。

コンサートの実現。
あの、みんなで輪になって、感じたいことがあるんだ、という熱意を、言葉にすることのむずかしさ。
仲間とのちょっとした想いの食い違いに悩みながら。

そんな中で書いていたブログです。

今思うと、あの日々も”芸の肥やし”であったと思うのですが。やっと、本当に、そう思える場所にやってきました。

さて、ちょっと共有します。

元 http://blog.livedoor.jp/inochi2012/archives/25520850.html


”3.11が過ぎ、3.12の朝。

最近読んだ小説「悼む人」、「星の巡礼」がちょうどいい具合に、新しい視点を追加してくれました。

なくなり方、ではなく、なくなった方がどんな人であったか。
それは「だれを愛し、だれに愛され、感謝された方であったか」の3つに集約されるのではないか。

いつもヒトは何かをもとめる。しかし、もとめるそのものを使って何をするかまで考えません。
その道のりに起こる、いろいろな合図は、すべて自分の成長のために用意されているのです。
敵は悪人とは限りません。また、敵は自分の中にもいます。
相手を悪人と思いこみ、作りこんだ被害者の物語は自分の心が作り出していきます。

どこかに向かう時、選択の基準を自分の愛、ガイドの声、そして「よき戦いをたたかうのだ」という決心に頼る。
そして「どんな事でも偶然はなく」、「人は、誰かが自分を待っている場所にあるべき時に、必ず行きつくものだ」と思うのです。

3.11以降、いや、それよりも以前から、本当にココに書いた事が、まさしく自分の身の周りに起き続けていることを理解しました。でも確実に3.11で「いのちって何ぞや」「生きる目的は?」という疑問はつきつけられたように思います。

何かのタイミング。
それをどうとらえるか。

そんな道を歩くのは、とてもつらいときがありますが、もしかして「道が自分を”歩かせている”」のかもしれません。

また、私が、今「幸せ」であることに、少しでも罪悪感を抱いていたことを反省しました。

今、よき戦いをたたかう、その道中。

呼吸をする事まで意識して、自分の中の自然を愛し、起こりうる未来を憂う事なく。
乗り越えられない事が前にはだかることはありません。大丈夫!旅は道連れ。

空気のようにすべてを受け入れ、ありのままの自分に還してくれるような、なくてはならない存在が、もうすでに、みんなの横で微笑んでいませんか?

ありがとうございます。


丹家”

写真は、実現した いのちの音の祭り、の写真。